自然光の差し込む部屋

​インテリアビジネスおぼえがき

~これだけは知っておこう!~

インテリアビジネスおぼえがき

第4話 戦後のインテリア事情①──駐留軍と女性インテリアデザイナー

 

日本に住宅のインテリアと女性インテリアデザイナーを持ち込んだのは駐留軍、つまりアメリカ軍だったようだ。

アメリカ軍の施設や、高級軍人の住居に関して、インテリアデコレーションの需要が生じたことから、それに応えるインテリアデザイン事務所が日本で設立されたのである。

アメリカ人向けのインテリアデザイン事務所として、そのころ有名だったのが、パシフィックハウス・ジャパンとワーダー・スタジオの2社だった。

女性として初めて三井グループの㈱三井ホームインテリアで取締役に就任し、日本のインテリア事業を牽引してきた村上英子さんは、1959(昭和34)年にパシフィックハウス・ジャパンに入社した。

私が出版をお手伝いした村上さんの著書によると、パシフィックハウス・ジャパンは㈱三井物産の子会社で、軍を退職したアメリカ人デザイナーのもとで日本人の建築士やデザイナーが働いていた。仕事は全国の米軍基地、占領下の沖縄の嘉手納基地などで、その後日本に進出してきたアメリカの航空会社や弁護士事務所などを請け負い、さらに東京オリンピックの来日客をターゲットとして62(昭和37)年に開業したホテルオークラの客室やスカイラウンジなどのインテリアデザインを受注した。

一方ミルドレッド・ワーダー・スタジオは、アメリカ軍属の女性デザイナー、ミルドレッド・ワーダーが立ち上げた会社で、こちらは日本に来た軍人の住居などを中心にインテリアデザインをこなしていたという。

ワーダー・スタジオの例でも知れるように、そのころすでにアメリカのインテリア業界では女性が力を持っていた。

村上さんが所属していたパシフィックハウスでも、建築系の設計は男性の設計士が受け持っていたが、ファブリックスを主としたインテリアデザインは、荒木光子というデザイナーが腕を振るっていた。彼女はパシフィックハウスの設立を三井グループに持ちかけた実力者で、同社のオリジナルのテキスタイルをすべてデザインし、ホテルオークラの仕事も、客室のデザイン全体、壁、天井、カーテン、椅子の張り地などファブリックスいっさいを取り仕切った。

村上さんの著書他の情報によると、荒木光子という女性は、戦後三菱商事の社長を務めた荘清彦の妹で、大正から昭和にかけて欧米に留学し、戦前戦中は欧米との外交、社交界で活躍。戦後は、テキスタイルのデザインを主にインテリアデザインに携わりながら、GHQの情報収集などの仕事を引き受けていた。「マッカーサーに呼ばれても朝は応じません」と豪語するほどアメリカ人にも対等に接し、「GHQの淀君」とも呼ばれていたらしい。作家の松本清張も亡くなる直前に、その活躍を題材に小説を書く準備を進めていたというから、相当なスーパーウーマンである。

このように日本にも女性のインテリアデザイナーが存在したが、それはまさに「小説にでもなりそうな」華麗な経歴を持つ特殊な人物に限られていたようである。